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さわやかというか、朝は「寒っ!」っていう感じだった。もう、夏の元気のない気温。空も秋っぽい。
2009年8月8日の現地調査で到達できなかった燃料庫であるが、正確な位置をつかむことが出来た。資料は、
2.2m×2.2m木組式とある。これを地形図に落とすと、こちら。
×印が8日探索した谷。矢印が引渡目録地図による位置。次はこちらを探索。
きのう(8月9日)、舞鶴の市政記念館で開催されている「平和のための舞鶴の戦争展」(戦争展実行委員会主催)に行って来た。出展者の一人飯沢さんといろいろとお話をし、いろいろな情報を得てきた。
戦争遺跡マップ。昭和の遺構で「舞鶴の近代化遺産」に掲載されていないものがけっこうある。
なかでも倉梯山砲台は特出し的な感じで展示されており詳細図も。登攀コースとしては東舞鶴IC側から登るほうがいいとの話。
倉橋山砲台の写真。舞鶴の戦争遺跡では昭和期の建物で煉瓦が使われていることが多い。ホフマン輪窯が大正14年から稼動ということと関係ありではと飯沢さんはおっしゃっていた。
浦入砲台については、発電所の近くなのでアプローチが難しく飯沢さんも行っていないとのこと。一度、発電所に入らせてもらうことを交渉したがだめだったとのこと。裏から回るしかないとのご意見。山の上のほうから構造物を見たことがあるとの話も聞けた。
ほかに第三火薬廠の展示もあり、いろいろな情報交換ができ有意義であった。
福知山航空基地関係の遺構の情報が集まってくると無性に見に行きたくなって行って来た。ブログ等で告知もしたが結局は単独行。
福知山航空基地関係でもっとも完全な形で当時のものが残っている遺構である。位置は事前に位置図があったので、これをGPSに落として探索したところ難なく見つけられた。当初森林の南側からアプローチしたが、北側からのほうが簡単。ヤブカがたくさんおり、半袖で望んだところふと見ると同時に5匹程度が吸血しており腕がぼこぼこになった。
入り口部。建物は左右まったくシンメトリックで左右に同じような入り口がある。開口部の高さが低く見えるが、これは土砂が堆積しているため。写真は東側入り口
こちらは西側入り口からの通路突き当たりで左に90度曲がる。入り口に堆積した土砂は1メートルくらいまで。土砂がなくなると水が10センチくらいたまっている。壁にカマドウマがいる。
指揮所の内部。出入り口は両側に2箇所あるがそれ以外の開口部はない。よって真っ暗。やはり水が10センチくらいたまっている。
コウモリがいた。50頭程度のコロニーである。現地ではアブラコウモリだろうと思っていたが、帰ってきて写真を見るとキクガシラコウモリ。あるいはコキクガシラコウモリという線も捨てられない。いずれも京都府のレッドデータブックでは「絶滅寸前種」に指定されておりめずらしいコウモリである。特にコキクガシラコウモリであれば現在府内で2産地しか知られておらず新産地となるようなので種判定のため再調査したい。
完全な形でのこる遺構としての活用も考えられるが、希少種のコウモリの生息地として捕らえると、現状維持が望ましいと思う。また、多人数での入り込みは、とりわけ出産期(6月)や冬眠期(11月~4月)の入り込みは、コウモリの隠れ家放棄につながる可能性があり、さらにコウモリからの感染症の危険性もあるため、指揮所の見学会などの実施についてはこの点の配慮もお願いしたいところである。
なお、コウモリ保護の見地から、指揮所の位置はあえて地図に落とさなかった。
搭乗員待避所は土地区に残されていたが、市の総合整備事業に伴って取り壊された。取り壊しに際し、地元が市に保存について働きかけ、一部が切り取られて日新地区公民館に保存されている。保存遺構のそばには石原飛行場に関する地図を含む説明版がある。
指揮所の北にあった盛土。おそらく無蓋掩体の一部なんだろう。
滑走路跡は昭和27年までに農地に復旧された。この記念碑は農地への復旧を記念して建てられたもの。滑走路の東端にあたる戸田集落近くの農道交差点付近にある。
他に高竜寺山北麓に燃料庫跡が残るというが、今回は探索したものの見つけられなかった。
格納庫が現存するということで見てきたが、確実に納得できるものではない。確かにこの大きさは普通の工場ではなく航空機の格納庫サイズではあるが、内部のトラス組みなどを見ないとどの程度当時のものなのかに疑問が残る。
現在のジャパンの場所が福知山工場の本部跡地であるというが、痕跡は一切ない。
福知山市市寺にある採石場。ここが、地下工場跡地であるという。やはり痕跡はなさそう。
南土野町には半地下工場の基礎部が残るらしいが今回は確認できなかった。
綾部市小貝山の創造の森に福知山航空基地防空のため小貝山高射砲台があった。小貝山山頂にはあずまやが整備されているが、あまり利用されている感じはない。
山頂にはくぼ地が何箇所かありこれが高射砲台の遺構なのであろう。
山頂にあった三等三角点「私市」。標高は115.95 m。
現在の綾部市小貝にあるが、福知山市側の旧佐賀村役場を移築したものらしい。
石に刻まれた「佐賀村役場」の銘。
軒天の意匠は宮津市由良の浜野路公民館のものと同じだ。こういうパターンってあるのね。下は浜野路公民館の軒天。
旧佐賀村役場のすぐ近くにある建物。現在は自動車屋の建物で車がたくさん置いてある。
旧佐賀村役場とよく似た建物だが、特に軒天はまったく同じ。旧佐賀村役場が移築ならこれも移築なのだろう。
ここからは、福知山市街地。べーさん情報によるものが多い。
櫻湯は大正期のものらしい。ファザードがモルタルがけっこう重厚な感じ。道の反対側にひいた位置からも「櫻湯」の表示は見えにくい。おそらく庇は後付けなのだろう。
明治期の建物に洋館風を後付け。べーさんによると旧銀行ではとのこと。洋館風部分は大正期?
音無瀬橋のたもとに位置する上柳町は旧山陰道が通るとともに、由良川水運の玄関口としても栄えた街であり、古い建物が軒を連ねる。
これは北端に位置する治水記念館(地図N)。明治10年代の建物。展示にも興味があったが残念ながら時間が遅く閉館していた。
「昭和7年3月竣功」の銘がある。ゲルバー式コンクリート橋であった。親柱のみ移設保存されている。6代目はバスケットハンドル型ニールセンローゼ桁橋として平成7年3月竣工。
明治37年竣工。移築されて福知山成美高等学校校舎として利用されている。なかなかいい写真を取れる場所がない。ネット越しの写真。
昭和9年竣工。さりげないがしゃれた建物である。これも写真を撮るのに苦労した。
というわけで、半日で目いっぱい回った。当初は、マンドリンクラブの練習のついでのつもりだったのだけれど、くたびれ果てて、練習をさぼって帰ってきたという次第。
しらんかったなぁ。マインの前の駐車場って滑走路だったんだ。上地図の赤枠が滑走路。遺構も結構残っている(白マーク)。
詳細はこちら。
さて、上のCGはGoogleEarthで見た福知山の石原飛行場(福知山航空基地)第2滑走路である。実は、石原飛行場の第2滑走路の存在はきょうまで知らなかったのだけれど、アジア歴史資料センターで資料を見て回っていてそういうのがあるというのことを知った。
それよりなにより、その立地だ。なんと、鉄道と道路の間に滑走路があるのだ。この第2滑走路が実在したという確信はまだ持てていないけれど、こういうことがありえたのはやはり戦争だからだろう。
根拠資料はこちら。
この資料の注記によると、昭和20年8月22日現在で進捗は完了となっている。規模は30m×600m。構造は「水■マカダム」(■は判読不能)となっているのでマカダムローラーによる転圧のみの未舗装滑走路ということなのだろう。
出展:海軍省, 1945?. 引渡目録, 福知山. (アジア歴史資料センター)
新温泉町のパンフレットで、湯村温泉が848年に円仁(慈覚大師)により発見されたということになっていることを知った。
円仁については、こちらに19次遣唐使とあわせて書きかけているが、唐から帰ってきたのが847年。微妙に矛盾はない。
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