峰山海軍航空隊
峰山海軍航空隊は1944年3月、不足した航空機の搭乗要員を急速に要請するために、島根県にあった第2美保海軍航空隊の分遣隊として、京都府中郡河辺村に設けられたものである。京丹後市の旧峰山町、旧大宮町にまたがる国道176号線の東側、マイン駐車場から南の位置に滑走路があった。峰山分遣隊は主として戦闘飛行訓練の部隊だったため、基地には全国から基礎訓練を終えた隊員が集まってきた。多いときには一時に1500人、全体で3000人の青年が、ここで厳しい飛行訓練を受けた後、戦場に飛び立っていった。
1945年に入り、フィリピンの戦闘で海軍の航空部隊の主力が壊滅した後は、本来練習のための航空隊だった峰山分遣隊は艦隊航空隊に編集されて峰山海軍航空隊として独立し、隊員たちは「特攻隊」員として突入訓練を繰り返した。訓練には舞鶴湾上に浮かぶ艦船を目標にしたてたが、戦局が悪化しすでに日本の上空にも連合軍の戦闘機が飛ぶようになっていたため、昼間は訓練を行うことができなかった。そのため危険な夜間訓練が強行され事故が頻発し、何人もの若者が戦場に飛び立つ前に命を落とした。結局、敗戦までに118人の兵士が特攻隊員に選ばれ、鹿屋基地に向かったが、いずれも特攻出発前に終戦を迎えることができたという。(以上、「京都の「戦争遺跡」をめぐる」より)
ジュンテンドーのすぐ近くにある弾薬庫と呼ばれる建物(地図A)。イギリス積みの煉瓦造でモルタルで仕上げられている。煉瓦のサイズは、212.8mm×99.9mm×58.4mmで、JISに近い。以前測定した第三火薬廠の煉瓦構造物に用いられていた煉瓦もJISに近かった。太平洋戦争時の海軍施設は意外とJISなのか。
こちらもなんらかの関連施設(地図B)。壁は煉瓦造モルタル仕上げ。瓦はモルタル瓦である。さきほどの「弾薬庫」もそうだが、この時期になぜ煉瓦造の建物を建てたのかは不思議なところ。鉄道では、明治の末からコンクリート造が始まり、昭和になるとまず煉瓦は見られない。しかし、どうも戦争遺跡では1940年代でもけっこう煉瓦造が見られるようだ。戦時でコンクリートよりも煉瓦の入手の方が容易だったのか、あるいは神崎煉瓦の存在が効いているのかそのあたりが原因なのだろう。
現存する峰山航空隊関連施設でもっとも目を引くのはこの格納庫だろう(地図C)。外装はほとんど新しくなっているようだけれど、木造の屋根組みはぜひ一度見てみたい。なにせ航空機の格納庫だから、この中、ほとんど柱がないのだろう。このスパンでトラスの木造で屋根を形成しているというのは、おそるべしである。
滑走路の南端にある美空園と呼ばれる公園(地図D)に飾ってる錨のマーク入りのマンホール。もうひとつ、マンホールとして現用されているものがあるようだが今回は場所がわからなかった。ほかにも、擁壁や水路など当時のものが残っているらしいので、もう一度精査したい。
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すごいレポートですね。
これだけのものがしっかり残っていることに驚きを感じました。
投稿: かもす | 2009/10/09 23:15
コメントありがとうございます。
特に、格納庫の屋根組については木造なので手が入ってることにより残っています。現在は織物工場の所有となっていて工場建屋として使われていますが、年間の維持費が数十万かかっているとのことで、なんらかの対策がないとなくなってしまうおそれがあります。
投稿: nagai | 2009/10/10 05:37