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2011年5月

2011/05/22

吉坂堡塁再訪

Img_2484

所在地:舞鶴市~高浜町 吉坂峠
着工:明治33年7月
竣工:明治35年11月

本堡塁:12センチカノン砲6門(初め鋼製9センチ臼砲6門)
付属堡塁:クルップ式35口径中心軸12センチカノン砲2門
備砲着手:明治34年12月
備砲完了:明治35年7月

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べーさんが吉坂堡塁に行きたいと言い出したので、北西区画を余り見ていないこともあり、もう一度行ってみたくなり、べーさんと2人で21日、吉坂堡塁を再訪した。

前回は杉森神社から登ったが、この上りが結構大変で、今回もまたあの道を登らなければならないと諦めていたが、メーリングリストでIさんから、舞鶴側からの登り口を教えてもらい、今回はそちらのルートから登ることにした。

青葉トンネルの舞鶴側にはラブホテルが2軒あるが、そのあたりから、旧道に入り、少し行くと上の写真の分岐点( 地図A)があり、ここから軍道が始まっている。一部崩落しているが、関西電力が高圧線保守のために歩道程度には補修しており、そこ以外は緩勾配で広い道を登る。登りは40~50分というところ。この軍道は、堡塁の北西部から堡塁に入ってくる道で、ちょうど私たちが前回見ていないエリアから入り、好都合であった。

この北西部を兵舎や食施設を中心とするエリアであるため、ここでは本堡塁「居住エリア」と呼ぶことにする。本堡塁には門があるが、門の内側を本堡塁「本体」と呼ぶ。

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居住エリア到着直前に何らかの建物があった場所(地図B)に到達。この地点には、いろいろな文献で建物が図示されているが、建物の目的はよくわからない。写真のように、基礎などの構造物は見られなかったが、若干の瓦を見かけた。

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写真は輪形雪止瓦でしかも雪止め部に文字が入っているもの。漢数字と「特許」という文字が見える。「十」という字がやたら書いてあるが、これは漢数字なのか記号なのか模様なのかよくわからない。

こちらのブログに「輪形雪止め瓦は、明治末ごろ特許が、とられ、だんだんと増えていった」との記述がある。ということは、出始めの頃の輪形雪止瓦かも知れぬ。

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次は、監守衛舎があったと思われる場所(地図C)。こちらも、いかにも建物があったという区画はあるが、基礎などの構造物は見られず。わずかに、モルタル製の手水のようなものと、

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瓶の底部の破片が見受けられた。

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そして、居住エリアで最もユニークな構造物である貯水槽(地図D)。現地では、公園の噴水池のような牧歌的な雰囲気に圧倒され、これがどういう構造物なのかよくわからなかったが、これは文字どおり貯水槽で、この円形の構造物は地下の貯水槽のふたで、この下に、円柱形の貯水槽があり、真中の井戸のようなものは、その貯水槽から水を汲み出すための「井戸」と考えるのが妥当なようだ。

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で、居住エリアの中心的な建物である兵舎(地図E)。基礎が残る。基礎の内側に草が生えていないのは土間コンクリートのため。べた基礎とも考えたが、土間コンクリートと考えるが妥当なようだ。基礎に見えるものも、基礎というよりは、土間コンクリートの縁取り的な感じ。

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この基礎は、れんが積み。長手積みである。すなわち、れんがの幅分の幅しかない。兵舎については、どの文献にも2棟ならんで建っているように図示されているが、もう1棟については痕跡が認められなかった。

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2棟ある兵舎の間に、射垜(あづち)に登る階段がある(地図F)。

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兵舎の北西には厠(便所)があり(地図G)、こちらへも階段で降りる。兵舎と厠の段差には石積み擁壁。

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その擁壁の端部。見事にアールが付けられている。

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わかりにくいが、厠。

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兵舎の南側には、糧食庫と炊事所があったとされるが、基礎等の構造物はみられなかった。ただ、瓦と多数のビンが散乱(地図H)。たしかに食の施設があったことを伺わせる。

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糧食庫の東側には厠(便所)(地図I)。

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この厠の北側には、一段下がった場所に、砲弾と火薬の保守整備をする施設である弾廠がある(地図J)。段差の擁壁と、基礎が見える。

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そして門(地図K)。ここからが本堡塁本体となる。気合の入った石積み。

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門扉があったところには蝶番金物が残る。そして、石積みも盛り上がっている。美しい。目地は逆覆輪目地で、仕上げられている。

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門を入ったところに火薬支庫(地図L)。総RC。門の真正面でなく、すこし右にオフセットさせてある。

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火薬支庫入り口の両側にある穴。この穴は、

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内側のこの穴と繋がっているようだ。ということは、通風口。

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火薬支庫の真ん前にある階段(地図M)。門から連なる土塁に上がれる。

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火薬支庫の裏手にある砲具庫(地図N)。基礎のみ残る。

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本堡の中央部に位置する掩蔽部(地図O)。4連。基本的にRC造で、妻面はれんがであるが、このれんがの壁は非耐力壁(カーテンウォール)である。舞鶴要塞の明治期の砲台・堡塁で、この構造(脚壁部もRC)を持つのは、吉坂の掩蔽部だけである。ほかの砲台・堡塁の掩蔽部はすべて、アーチ部だけがRCで、脚壁はれんがである。

ちなみに、舞鶴で、れんが壁をカーテンウォールとしているものは、他に赤れんが博物館第三火薬廠火薬乾燥場がある。

星野らは、砲台の時代区分を、準備期(明治5~19)、建設期(明治19~30)、完成期(明治30~42)、整理期(明治42~)に分け、

準備期に築造されたものは、天井アーチ及び脚壁(天井アーチを支える厚い壁)ともに切石や煉瓦が用いられたものがほとんどである(しかし、鉄筋コンクリートの使用は、明治 17 年に竣工した東京湾要塞の観音崎第1砲台が最初である)。建設期では、アーチに鉄筋コンクリートが用いられ、脚壁には依然として切石や煉瓦が用いられた。しかし完成期には、明治 29 年に工兵会議長を長とする研究委員会が設けられ、31 年には堡塁砲台に関する様式が答申された。それ以降、予算の許す限り、アーチ及び脚壁ともに鉄筋コンクリートが使用されるようになった。
としている。
星野 裕司, 小林 一郎, 2001. 明治期の砲台跡地にみる土木遺産の保存・活用について. 土木史研究・論文集. (21): 89-100.

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4連ある掩蔽部の一番北側の部屋(便宜的に第1室と呼ぶ)の奥にある貫通路。第2、第3室までしかつながっていないように見える。

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どうでもいい話だが、上の写真は実にチューダー様式っぽい。ちなみに右の写真はチューダー様式の軽井沢、旧三笠ホテル。こちら(環境デザイン研究ブログ)から引いた。



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第2室から第3室と第4室のあいだの通路を見たところ。第3室第4室間の通路のみオフセットしている。なぜ?

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理由は簡単。第4室のみ奥行きが寸足らずなのでした。これも、不思議といえば不思議。内壁は、コンクリートの打ちっぱなし。

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掩蔽部は、一段下がった場所にあるのが普通だが、ここもそうなっている。段差は石積み擁壁。ここの階段はいやに緩やかな階段だった。

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第1室横の石積み擁壁。なにげにアールが付いている。

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れんがの寸法は、実測平均、215.0mm×97.2mm×54.7mmであった。幅が若干寸足らずではあるが、いちおう、「厚めの山陽新型」というカテゴリーに入れられる。ということは、浦入砲台と同じ寸法カテゴリーで、めでたしめでたし。れんがの寸法についてはこちらにとりまとめている。

目地仕上げは、平目地仕上げ。これは、山目地仕上げの浦入や金岬と異なる。

ということで、もう少し見たかったが、ここで昼となり、午後は火薬廠に回ることにしたので、今回の吉坂はこれでおしまい。


2011/05/20

吉坂堡塁行き【予告】

09210047

2011.5.21(土) 9:00 舞鶴高専駐車場集合

目的地は吉坂堡塁。1時間程度の「登山」になります。時間があれば、火薬廠も。

参加者は、いまんとこ、私とべーさん

参加希望者は私までメールを。egf@nifty.com

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