吉坂堡塁再訪
所在地:舞鶴市~高浜町 吉坂峠
着工:明治33年7月
竣工:明治35年11月本堡塁:12センチカノン砲6門(初め鋼製9センチ臼砲6門)
付属堡塁:クルップ式35口径中心軸12センチカノン砲2門
備砲着手:明治34年12月
備砲完了:明治35年7月
べーさんが吉坂堡塁に行きたいと言い出したので、北西区画を余り見ていないこともあり、もう一度行ってみたくなり、べーさんと2人で21日、吉坂堡塁を再訪した。
前回は杉森神社から登ったが、この上りが結構大変で、今回もまたあの道を登らなければならないと諦めていたが、メーリングリストでIさんから、舞鶴側からの登り口を教えてもらい、今回はそちらのルートから登ることにした。
青葉トンネルの舞鶴側にはラブホテルが2軒あるが、そのあたりから、旧道に入り、少し行くと上の写真の分岐点( 地図A)があり、ここから軍道が始まっている。一部崩落しているが、関西電力が高圧線保守のために歩道程度には補修しており、そこ以外は緩勾配で広い道を登る。登りは40~50分というところ。この軍道は、堡塁の北西部から堡塁に入ってくる道で、ちょうど私たちが前回見ていないエリアから入り、好都合であった。
この北西部を兵舎や食施設を中心とするエリアであるため、ここでは本堡塁「居住エリア」と呼ぶことにする。本堡塁には門があるが、門の内側を本堡塁「本体」と呼ぶ。
居住エリア到着直前に何らかの建物があった場所(地図B)に到達。この地点には、いろいろな文献で建物が図示されているが、建物の目的はよくわからない。写真のように、基礎などの構造物は見られなかったが、若干の瓦を見かけた。
写真は輪形雪止瓦でしかも雪止め部に文字が入っているもの。漢数字と「特許」という文字が見える。「十」という字がやたら書いてあるが、これは漢数字なのか記号なのか模様なのかよくわからない。
こちらのブログに「輪形雪止め瓦は、明治末ごろ特許が、とられ、だんだんと増えていった」との記述がある。ということは、出始めの頃の輪形雪止瓦かも知れぬ。
次は、監守衛舎があったと思われる場所(地図C)。こちらも、いかにも建物があったという区画はあるが、基礎などの構造物は見られず。わずかに、モルタル製の手水のようなものと、
瓶の底部の破片が見受けられた。
そして、居住エリアで最もユニークな構造物である貯水槽(地図D)。現地では、公園の噴水池のような牧歌的な雰囲気に圧倒され、これがどういう構造物なのかよくわからなかったが、これは文字どおり貯水槽で、この円形の構造物は地下の貯水槽のふたで、この下に、円柱形の貯水槽があり、真中の井戸のようなものは、その貯水槽から水を汲み出すための「井戸」と考えるのが妥当なようだ。
で、居住エリアの中心的な建物である兵舎(地図E)。基礎が残る。基礎の内側に草が生えていないのは土間コンクリートのため。べた基礎とも考えたが、土間コンクリートと考えるが妥当なようだ。基礎に見えるものも、基礎というよりは、土間コンクリートの縁取り的な感じ。
この基礎は、れんが積み。長手積みである。すなわち、れんがの幅分の幅しかない。兵舎については、どの文献にも2棟ならんで建っているように図示されているが、もう1棟については痕跡が認められなかった。
2棟ある兵舎の間に、射垜に登る階段がある(地図F)。
兵舎の北西には厠(便所)があり(地図G)、こちらへも階段で降りる。兵舎と厠の段差には石積み擁壁。
その擁壁の端部。見事にアールが付けられている。
わかりにくいが、厠。
兵舎の南側には、糧食庫と炊事所があったとされるが、基礎等の構造物はみられなかった。ただ、瓦と多数のビンが散乱(地図H)。たしかに食の施設があったことを伺わせる。
糧食庫の東側には厠(便所)(地図I)。
この厠の北側には、一段下がった場所に、砲弾と火薬の保守整備をする施設である弾廠がある(地図J)。段差の擁壁と、基礎が見える。
そして門(地図K)。ここからが本堡塁本体となる。気合の入った石積み。
門扉があったところには蝶番金物が残る。そして、石積みも盛り上がっている。美しい。目地は逆覆輪目地で、仕上げられている。
門を入ったところに火薬支庫(地図L)。総RC。門の真正面でなく、すこし右にオフセットさせてある。
火薬支庫入り口の両側にある穴。この穴は、
内側のこの穴と繋がっているようだ。ということは、通風口。
火薬支庫の真ん前にある階段(地図M)。門から連なる土塁に上がれる。
火薬支庫の裏手にある砲具庫(地図N)。基礎のみ残る。
本堡の中央部に位置する掩蔽部(地図O)。4連。基本的にRC造で、妻面はれんがであるが、このれんがの壁は非耐力壁(カーテンウォール)である。舞鶴要塞の明治期の砲台・堡塁で、この構造(脚壁部もRC)を持つのは、吉坂の掩蔽部だけである。ほかの砲台・堡塁の掩蔽部はすべて、アーチ部だけがRCで、脚壁はれんがである。
ちなみに、舞鶴で、れんが壁をカーテンウォールとしているものは、他に赤れんが博物館、第三火薬廠火薬乾燥場がある。
星野らは、砲台の時代区分を、準備期(明治5~19)、建設期(明治19~30)、完成期(明治30~42)、整理期(明治42~)に分け、
準備期に築造されたものは、天井アーチ及び脚壁(天井アーチを支える厚い壁)ともに切石や煉瓦が用いられたものがほとんどである(しかし、鉄筋コンクリートの使用は、明治 17 年に竣工した東京湾要塞の観音崎第1砲台が最初である)。建設期では、アーチに鉄筋コンクリートが用いられ、脚壁には依然として切石や煉瓦が用いられた。しかし完成期には、明治 29 年に工兵会議長を長とする研究委員会が設けられ、31 年には堡塁砲台に関する様式が答申された。それ以降、予算の許す限り、アーチ及び脚壁ともに鉄筋コンクリートが使用されるようになった。としている。
星野 裕司, 小林 一郎, 2001. 明治期の砲台跡地にみる土木遺産の保存・活用について. 土木史研究・論文集. (21): 89-100.
4連ある掩蔽部の一番北側の部屋(便宜的に第1室と呼ぶ)の奥にある貫通路。第2、第3室までしかつながっていないように見える。
どうでもいい話だが、上の写真は実にチューダー様式っぽい。ちなみに右の写真はチューダー様式の軽井沢、旧三笠ホテル。こちら(環境デザイン研究ブログ)から引いた。
第2室から第3室と第4室のあいだの通路を見たところ。第3室第4室間の通路のみオフセットしている。なぜ?
理由は簡単。第4室のみ奥行きが寸足らずなのでした。これも、不思議といえば不思議。内壁は、コンクリートの打ちっぱなし。
掩蔽部は、一段下がった場所にあるのが普通だが、ここもそうなっている。段差は石積み擁壁。ここの階段はいやに緩やかな階段だった。
第1室横の石積み擁壁。なにげにアールが付いている。
れんがの寸法は、実測平均、215.0mm×97.2mm×54.7mmであった。幅が若干寸足らずではあるが、いちおう、「厚めの山陽新型」というカテゴリーに入れられる。ということは、浦入砲台と同じ寸法カテゴリーで、めでたしめでたし。れんがの寸法についてはこちらにとりまとめている。
目地仕上げは、平目地仕上げ。これは、山目地仕上げの浦入や金岬と異なる。
ということで、もう少し見たかったが、ここで昼となり、午後は火薬廠に回ることにしたので、今回の吉坂はこれでおしまい。
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昨日はお付き合いいただきありがとうございました。
舞鶴側からの軍道ルート、中々楽しかったです。
これならハイキング気分でまた行けるなとw
遺構も前回見落としていた遺構を見ることができ、良かったです。
掩蔽部から砲座への部分が藪になってなかったらなぁといつも思いますねぇ。
火薬廠の方も未見の遺構がみれて良かったです。
また機会ありましたら別の場所の探索でも。
赤レンガ博物館発行のパンフ見ているとまだ未見の場所多いですし。
投稿: べーさん | 2011/05/22 17:58
時間をかけて見ることができてよかったし、時間をかけてみるときに何を見るべきかという勉強にもなりました。他の砲台にもまた行って見たいですね。
それより、ダニは大丈夫ですか。わたしは、けっこう食われましたw
投稿: nagai | 2011/05/22 18:02