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2011年6月

2011/06/26

高津公会堂、明倫堂・奠麗校跡

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きのう(2011.6.25)、綾部市高津の高津公会堂(地図A)で高津老人会のイベントがあり、福知山マンドリンクラブで余興演奏をやってきた。この建物、風格のある当然戦前の建物である。役場跡かというくらいの懸魚のある立派な建物である。地元の人によると100年くらいはたっているとのこと。

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と、こんな鬼瓦に気づいた。訳の解らん漢字が書いてある。

「黌」という字は、「コウ」と読み、「学」と「校」たして2で割ったような意味合いのようだ。つまり、やはり「学校」をあらわす。昔、甲子園に出た「熊本県立済々黌高校」もこの字が入っている。だから、やっぱり、この建物は元学校と考えるのがよさそう。もちろん移築とかもしれない。しかし、なんかこの鬼瓦は真新しい感じがしなくもない。

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こちらは、我が家の近くの旧相田小学校校舎の鬼瓦。こちらは「學」である。見比べると、高津のほうが上等っぽい。相田は石州で、高津は三州かな。

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さて、これは綾部市高津公会堂近くの農業倉庫(地図B)脇に立つ標柱。情報量多いが整理すると、
まず、慶応3年(1867年)に、綾部藩主九鬼隆備によって郷学校明倫堂がここに開設された。
明治6年(1873年)に、明倫堂はこの地から延村の八反というところに移り、名前も遵義館となった。
明治8年(1875年)に、この地に、遵義館の分校である奠麗校が開設された。
明治20年(1887年)、奠麗校は遵義館と合併し、中筋尋常小学校となる。中筋尋常小学校は現在の中筋小学校の場所にあったとすれば、ここから学校がなくなったということになる。

で、この標柱の近くの高津公会堂の鬼瓦の「黌」の字であるが、学校施設の生き残りであれば、奠麗校の施設だということになる。ということになると1887年以前の瓦ということになるが実態はどうなのだろうか。
大きな地図で見る

2011/06/12

コウモリ論文掲載

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雑誌「Nature Study」6月号に、私と浦野信孝さん、美濃部直久さん3人の共著で京都府下のコウモリ生息地を取りまとめた短報「京都府の人工洞に生息するコウモリ」が掲載されました。

私は、この中で、舞鶴要塞や第三火薬廠、福知山飛行場関連施設などの戦争遺跡において見つけたキクガシラコウモリの生息地を報告しています。


2011/06/04

川西航空機福知山工場跡探索会

両丹日日新聞に、中丹地域の歴史と文化を掘りおこす会主催の標記探索会が開催されると紹介されていたので、本日(2011.6.4)参加してきた。以前から採石場に地下工場があったということはうすうす知ってはいたが、半田、正明寺周辺を総合的に見て回れるということで楽しみな企画ではあった。

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大興寺(地図P)に集合し、まずは大興寺の東側の工場跡(地図A)。コンクリートやレンガなどの遺構はなく、人工的な地形のみであるが、写真の土塁のようなものなど、ここはまだ比較的わかるところ。

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大興寺の西側の墓地ちかくの遺構(地図B)。この林の中にあるのだが、ちょっとした凹みである。かまぼこ型コンクリート造の覆土式工場があったというが、コンクリートのかけらもない。

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軍食堂や軍宿舎などがあったという場所を抜け、勤労奉仕徴用人員食堂跡(地図C)。現在は畑である。奥に飯場と浄水源があったといい、現在でも湧き水は出ている。

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この勤労奉仕徴用人員食堂跡から、写真中央辺りの竹やぶへ木橋がかかっていたという。当時よりここは水田で、水田を潰して道路を作ることを避け木橋をかけたのではないかということだ。橋脚は幾つかあっただろうが大掛かりな木橋である。しかも自動車が走っていたというから、やはり当時の木造技術恐るべしである。

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地図Eにあるトンネル跡。トンネルを工場にしていたという。要するに地下工場である。トンネルは木造であったらしく跡形もなく、崩落跡らしきものがのこるのみ。

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地図Fの「3段の田に工場」跡地と「トンネル工場」跡地付近。このあたりは当時と地形が全く変わってしまったということで、当時の様子を地元の方から聞いた。

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そして地図Hの朝鮮人宿舎。ここでついにコンクリート遺構に出会えた。大変にせまいコンクリート遺構である。土間コンクリートであろうが、厚さは15cmもある。風呂場ではないかと考えられているようだが、15cm厚ならなにか重量物を置いた跡かもしれない。何の跡かの手がかりは何もなかった。

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で、べーさんお待ちかねの瓶。朝鮮人宿舎跡から2本まとめて発見。文字はない。

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そして、最後は「タムシチンキ」の瀬戸物の瓶。これは、Oさんが以前から見つけていたということで、本日、Oさんがお持ち帰りになられた。最初、Oさんがこれを持っているのを見て碍子を持っているのかと思ったくらい碍子の質感である。よって、出石焼かもね。

というわけで、はっきりした遺構に乏しい川西航空機福知山工場跡探索であった。舞鶴要塞や第3火薬廠と比べると、往時にコンクリート構造物があった割には、コンクリート遺構が尽く喪失されていることに驚かざるを得ない。地元の人の話では終戦後も進駐軍による接収もなく民間に返還されたようで、個人所有となってから、構造物撤去の努力が続けられてきた結果であるとしか考えようがない。そういうベクトルがかかり続けることで、舞鶴要塞や第3火薬廠とは違った道を歩んできたのであろう。そういう意味で、むしろ舞鶴要塞や第3火薬廠は貴重な存在なのかもしれない。

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葦浦史穂の本


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