高津公会堂、明倫堂・奠麗校跡
きのう(2011.6.25)、綾部市高津の高津公会堂(地図A)で高津老人会のイベントがあり、福知山マンドリンクラブで余興演奏をやってきた。この建物、風格のある当然戦前の建物である。役場跡かというくらいの懸魚のある立派な建物である。地元の人によると100年くらいはたっているとのこと。
と、こんな鬼瓦に気づいた。訳の解らん漢字が書いてある。
「黌」という字は、「コウ」と読み、「学」と「校」たして2で割ったような意味合いのようだ。つまり、やはり「学校」をあらわす。昔、甲子園に出た「熊本県立済々黌高校」もこの字が入っている。だから、やっぱり、この建物は元学校と考えるのがよさそう。もちろん移築とかもしれない。しかし、なんかこの鬼瓦は真新しい感じがしなくもない。
こちらは、我が家の近くの旧相田小学校校舎の鬼瓦。こちらは「學」である。見比べると、高津のほうが上等っぽい。相田は石州で、高津は三州かな。
さて、これは綾部市高津公会堂近くの農業倉庫(地図B)脇に立つ標柱。情報量多いが整理すると、まず、慶応3年(1867年)に、綾部藩主九鬼隆備によって郷学校明倫堂がここに開設された。
明治6年(1873年)に、明倫堂はこの地から延村の八反というところに移り、名前も遵義館となった。
明治8年(1875年)に、この地に、遵義館の分校である奠麗校が開設された。
明治20年(1887年)、奠麗校は遵義館と合併し、中筋尋常小学校となる。中筋尋常小学校は現在の中筋小学校の場所にあったとすれば、ここから学校がなくなったということになる。
で、この標柱の近くの高津公会堂の鬼瓦の「黌」の字であるが、学校施設の生き残りであれば、奠麗校の施設だということになる。ということになると1887年以前の瓦ということになるが実態はどうなのだろうか。
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