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2011/06/04

川西航空機福知山工場跡探索会

両丹日日新聞に、中丹地域の歴史と文化を掘りおこす会主催の標記探索会が開催されると紹介されていたので、本日(2011.6.4)参加してきた。以前から採石場に地下工場があったということはうすうす知ってはいたが、半田、正明寺周辺を総合的に見て回れるということで楽しみな企画ではあった。

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大興寺(地図P)に集合し、まずは大興寺の東側の工場跡(地図A)。コンクリートやレンガなどの遺構はなく、人工的な地形のみであるが、写真の土塁のようなものなど、ここはまだ比較的わかるところ。

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大興寺の西側の墓地ちかくの遺構(地図B)。この林の中にあるのだが、ちょっとした凹みである。かまぼこ型コンクリート造の覆土式工場があったというが、コンクリートのかけらもない。

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軍食堂や軍宿舎などがあったという場所を抜け、勤労奉仕徴用人員食堂跡(地図C)。現在は畑である。奥に飯場と浄水源があったといい、現在でも湧き水は出ている。

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この勤労奉仕徴用人員食堂跡から、写真中央辺りの竹やぶへ木橋がかかっていたという。当時よりここは水田で、水田を潰して道路を作ることを避け木橋をかけたのではないかということだ。橋脚は幾つかあっただろうが大掛かりな木橋である。しかも自動車が走っていたというから、やはり当時の木造技術恐るべしである。

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地図Eにあるトンネル跡。トンネルを工場にしていたという。要するに地下工場である。トンネルは木造であったらしく跡形もなく、崩落跡らしきものがのこるのみ。

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地図Fの「3段の田に工場」跡地と「トンネル工場」跡地付近。このあたりは当時と地形が全く変わってしまったということで、当時の様子を地元の方から聞いた。

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そして地図Hの朝鮮人宿舎。ここでついにコンクリート遺構に出会えた。大変にせまいコンクリート遺構である。土間コンクリートであろうが、厚さは15cmもある。風呂場ではないかと考えられているようだが、15cm厚ならなにか重量物を置いた跡かもしれない。何の跡かの手がかりは何もなかった。

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で、べーさんお待ちかねの瓶。朝鮮人宿舎跡から2本まとめて発見。文字はない。

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そして、最後は「タムシチンキ」の瀬戸物の瓶。これは、Oさんが以前から見つけていたということで、本日、Oさんがお持ち帰りになられた。最初、Oさんがこれを持っているのを見て碍子を持っているのかと思ったくらい碍子の質感である。よって、出石焼かもね。

というわけで、はっきりした遺構に乏しい川西航空機福知山工場跡探索であった。舞鶴要塞や第3火薬廠と比べると、往時にコンクリート構造物があった割には、コンクリート遺構が尽く喪失されていることに驚かざるを得ない。地元の人の話では終戦後も進駐軍による接収もなく民間に返還されたようで、個人所有となってから、構造物撤去の努力が続けられてきた結果であるとしか考えようがない。そういうベクトルがかかり続けることで、舞鶴要塞や第3火薬廠とは違った道を歩んできたのであろう。そういう意味で、むしろ舞鶴要塞や第3火薬廠は貴重な存在なのかもしれない。

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コメント

ガラス瓶拝見しました。見た感じ、昭和戦前期の瓶でしょうね。左は形から薬瓶でしょうか。
瀬戸物のタムシチンキの瓶は中々の珍品かも。

ご希望でしたらご案内しますよ。上の地図の高校の近くの食料庫軍宿舎というあたりも出てきそうですね。

本文にも加筆しましたが、タムシチンキの瓶は実に出石焼っぽい。

いつも拝見させて頂いております。戦争遺跡の探索等すごく楽しみにしております。福知山にも工場があった事は文献等で知っておりましたが、実際に見るとすごいですね。
今、自分は今は京都に住んでおりますが、北近畿出身です。高校までは宮津→岩滝とすんでおりましたが、昔親戚のおばにこんな話をよく聞きました。宮津の栗田にエネルギー研究所がありますが、そこに昔海軍の工場が有り、そこで学徒動員で飛行機の部品を作っていたとの話を思いだしました。空襲で危うく死に掛けたと、何度もその話を聞ききましたが、小さい頃の話で詳細は覚えておりません。今エネルギー研究所の場所は何か残ってないでしょうか?文献や国土地理院の地図では1947年のアーカイブで建物等が残っています。

コメントありがとうございます。

栗田の関電の施設には遺構があるという話は今のところ聞いていません。宮津では、戦争遺跡としては、舞鶴航空隊、栗田航空隊の基地跡のほうがいろいろと残っているようです。

こちらの斎藤喜一さんのサイトにいろいろと情報があります。私自身はこのあたりはまだよく調べていません。もうご存知かもしれませんが。

舞鶴海軍航空隊の概要

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