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さて、新見紀行もおそらくこれで今回は最終回。「今回」というのは「次回」もあるからで、次は9月下旬に行く予定である。最後に掲載する「御殿町」エリアは建物も多く、もひとつ消化しきれていないところもあるので、9月にもう一度訪れて、最終決着としたい。
「御殿町」エリアは新見市が今後の観光の切り札として整備中のエリアで、特に冒頭の写真である三味線横丁(地図の赤線)は、綺麗に復原工事がなされており、熱意が伝わってくる箇所である。ただ、現時点での三味線横丁は、建物だけつまりハードだけでソフトがない。よいソフトを持ってくれば十分ポテンシャルの高いハードであると考えられる。
林邸(地図A)。元醤油屋とのことだが、なまこ壁である。銀座通りも含めてこのエリアはなまこ壁はかなりの出現率。新見市も、このエリア一つのテーマをなまこ壁と考えているようだ。その気持ちの表れは、良し悪しは別として江道橋の改修に現れている。
旧横内病院。1899年ごろ。この建物は元医院でそのあと短大の寮を経て現在は廃墟である(地図B)。洋風の木造建築でなかなかいい感じの建物である。完全和風建築よりもこういう建物のほうがウケるはずである。
絵葉書にもなっているから、この建物の値打ちは地元でもよくわかっているはずだ。おそらく、福知山の松村邸のように所有関係が複雑なのかもしれない。御殿町の今後はこの建物にかかっているといってもよい。いい方向に進んで欲しい。
こんなんとか(地図C)、
こんなんとか(地図D)、
こんなんとか(これも地図D。同じ物件)も面白い。
御殿町の裏側は高梁川である。写真は、高瀬舟発着場跡(地図E)。(上に写っているのがRC造の「新見御殿町センター」。ネーミングからして間違っている(笑)。この建物は失敗だなぁ)
この高梁川からの景観も素晴らしい。素質は十分にあろう。絵葉書を買ったカツマルギャラリー界隈はすでに動き出している。だた、新見御殿町センターはどうしてもいただけないが。
新見の中心地は高梁川の東岸、駅と反対側に当たる。近年は御殿町として古い町並みを観光資源として活かそうという試みがあるが、その御殿町の中心地と佐々奈美精肉店の間に、新見銀座という商店街がある。
写真は、銀座商店街の北側入り口。佐々奈美精肉店のすぐ近くだ。朝の7時半頃の撮影だが、中学生が自転車を点灯させて走っていたのが印象的。極めて薄暗い雰囲気の商店街である。なお、歩行者は殆どおらず、また、一方通行で自動車の通行が許されているため、歩行者・対向車がいないこと前提で車が通り過ぎるため、ツール・ド・コルスやモンテカルロ・ラリーの市街地走行SSのように車がかなりのスピードで通り抜けるのであった。
このアーケードは、1963年。
西村益吉商店(地図A)のショーウィンドウ。"TOP MODE"の文字が眩しい。緻密なタイル貼り。
黒瀬呉服店(地図B)。アーケードと全くミスマッチな建物である。大正末~昭和初期の建物と見た。なまこ壁。
黒瀬呉服店の妻面。うだつの下部構造のようなものがある。屋根上にはうだつがあるのかもしれない。
畳表の大西(地図C)。岡山県らしい業種である。2階窓がすべて観音開きであることから昭和初期かと見たが、この建物はパンフレット「御殿町まち歩き」に掲載されており、それによるとなんと明治の建物という。恐るべし銀座商店街。
大西商店から南を見ると商店街はなにかいわく有りげな商店にぶつかる。
田原屋(地図D)。これもパンフレットに載っている。それによると、これも明治の建物という。
田原屋は塩干物、酒や度量衡器販売、衡器修復等の商いをしてきたという。造り酒屋かとも思ったが、造り酒屋とはまた別の地域の仕切り役的な商家であったようだ。なまこ壁。
これよりは、いわゆる御殿町エリアとなり、新見市の観光開発の努力が感じられるエリアとなるのだが、取り残された感の強い銀座商店街は、少なくとも明治の建物を2つもかかえるという、凄いパワーを秘めているように感じた。特に畳表の大西は、明治の建築としては注目すべき擬洋風ともいえる建具が現存しており貴重だ。
写真はすべて7月26日撮影。
ところで、この地図を見ると、古そうな建物は通りの南側ばかりにみられる。ひょっとすると、通りが北側へ拡幅された経緯があるのかもしれない。
1928年竣工。伯備線は同年、姫新線(当時は作備西線)が29年部分開業、芸備線(当時は三神線)が30年部分開業と、このころ一挙に鉄道が新見に押し寄せてきた。新見駅は市の中心部から西に1kmほど離れている。途中に高梁川があり、気分的にはもっと離れているような印象だ。
この距離が中途半端であった。もちろん近ければ良かったのだが、もっと離れていれば姫新線の高梁川橋梁を渡ったあたりに駅を作ればよかった。倉吉市の打吹駅のような感じだ。
それがかなわなかったため、市の中心部と駅前が分離したイメージのまま現在に至っている。このため、地域のパワーが集約できず、とくに市中心部は若干寂れ気味。
豊岡市のように市の中心機構が駅方面に移動ということもなかった。もっとも豊岡市の場合、北但大震災で被災したため駅方面に中心機構が移動できたのではあるが。
ともかく、新見駅の駅舎は1928年竣工のものが、かなり手は入っていようが、現在も使われている。木造2階建て。施工は門司港駅と同じ菱川組。
駅構内は広い。無駄に広い。鉄道の四つ辻となる新見駅は、往時は入れ替えなどが頻繁に行われ、転車台もあった。ただ、ホームは島型2面と、旅客対応設備は控えめである。
駅舎からホームへは地下道である。この構造は、昔の関西本線木津駅を彷彿とさせるが、Wikipediaによると、木津駅は線路が築堤上にあり通路は地平レベルで「地下道」ではなかったようだ。新見駅と木津駅の共通点はおそらく旅客扱いより入れ替え重視の駅ということだろう。
それは、ともかく、新見駅は伯備線唯一の地下道を持つ駅ということらしい。
ホームの上屋はレールで構成されている。1、2番ホームはすべてレール、3、4番ホームは一部レールで、レール部分は1928年にできたようだ。
サンライズ出雲も停車。サンライズをこんなに近くで見るのは初めて。内装木質化車両の嚆矢で、内装はパナホームが担当したんだよな、確か、などと、つい林業なことも考えた。
駅舎の写真は2011.7.25撮影、それ以外の写真は2011.7.29撮影。
地図A。1928年竣工。当時は国道180号線の橋梁として架けられた。鉄筋コンクリート桁橋。さりげなく美しい橋であるが、痛みが激しい。
親柱は万成石(花崗岩)を使用しているという。これはまだましな方で、もっとボロボロになっている親柱もあり痛々しい。
ところで、新見市は新見駅も高梁川橋梁も御茶屋橋も1928年、昭和3年竣工である。昭和3年は新見市にとって変革の年だったのだろう。駅ができ、鉄道ができ、中心市街地から駅に向けての国道ができたのである。文字通りの新しいグランドデザインが着々と現実化していった年なのである。ただ、駅が旧中心市街地から中途半端に離れすぎていたというのが、小さな街としてはそのパワーを分散させてしまい、旧中心地と駅前の両立が難しかったのではと思う。
御茶屋橋のすぐ南に、江道橋(地図B)という新しそうな橋がかかっている。デザインも御茶屋橋をパクったアーチであるが、このアーチはハリボテで、反対側はこのハリボテは省略されている。そして、旧中心市街地の御殿町を象徴するなまこ壁のデザインもあしらわれて、古い町並みの御殿町を中心とした観光による振興の決意表明のように感じる。御殿町についてはまた紹介したい。
この江道橋であるが、いろいろ調べてみると、昭和8年竣工の橋は架け替えられておらず、「修景」のためハリボテだけ付加されたということのようだ。このことにより、最高の橋から最低の橋になったと酷評されている。
御茶屋橋の写真は2011.7.26、江道橋の写真は2011.7.29撮影
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