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2013/03/07

舞鶴砲台巡り アシウラ編-3

舞鶴砲台巡り アシウラ編-3は、2013年3月5日9時30分にローソン下福井店集合としていたが、アシウラさんから渋滞で遅れると連絡が入り、集合していた人員で東舞鶴へ。

1 旧北吸浄水場


まずは私も未見であった旧北吸浄水場へ。今回は息子同行で、浄水場へは息子が道案内。

P1020310
まずは、門。れんが造モルタル仕上げであるが、一部モルタルがはがれていてれんがが見える。カーブが美しい門柱である。1904(明治37)年竣工。平成15年、国の重要文化財に指定されている。

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旧第二配水池、向こう側に写っているのが旧第一配水池。いずれもれんが造で重文。上部はかなり手が入れられているが、倉庫とはまたちがった重厚感がある。

実は旧海軍の軍港整備には大規模な水道整備が付き物である。舞鶴にしても、軍港が開かれる以前は、東舞鶴は小さな漁村に過ぎず、だからこそ大規模な開発ができたのであるが、軍港建設に先立ち軍主導でインフラ整備として上水道システムが構築された。当施設はそのシステムの一部で、ほかにかなり離れた山間部に取水口としての桂貯水池(こちらも重文)なども当時のままの姿で残っている。

P1020307
たいへん美しい入り口部。

P1020309
これまた、たいへん美しい小窓。


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旧北吸浄水場(A)と、取水地(桂貯水池、岸谷川下流取水堰堤)と示す

2 金岬砲台


さて、このあと舞鶴知恵蔵でアシウラさんと落ち合い、午後は金岬砲台へ。
金岬砲台の概要

所在地:舞鶴市白杉
構造:コンクリート+れんが造
着工:明治31年7月
竣工:明治33年2月

クルップ式35口径中心軸21センチカノソ砲4門
備砲着手:明治32年11月
備砲完了:明治33年10月

クルップ式35口径前心軸15センチカノン砲4門
備砲着手:明治33年11月
備砲完了:明治34年5月

両砲とも、昭和9年3月撤去

金岬砲台は、槙山砲台へ上がる道の途中から北側へ分岐する軍道を歩く。倒木がかなりあるものの、舞鶴要塞のアプローチとしては比較的歩きやすい方だろう。距離もそう遠くない。

ちょうど、ヒキガエルの産卵シーズンで途中の水たまりにはヒキガエルの卵も見られた。

P1020317a
ご本人ともご対面。アズマヒキガエル。

P1020367a
歩きやすい軍道ではあるが、途中1ヶ所のみ崩落箇所があり、ここのみややスリリング。写真は帰路。

ここの軍道には玉石が散見される。これを高級な仕上げと見る向きもあるが、いわゆる砕石というのは1965年ごろから生産が始まるのであって(こちら参照)、それ以前は骨材などにも川砂利が使われており、路面工にも当然、川砂利すなわち丸い石が使われていたのであろう。

P1020323
舞鶴の要塞の中でも、比較的アプローチが知られておらず、そのため、特に保存状態が良いのが金岬砲台で、なおかつ、遺構の広がりもなかなかのもの。まず、出会うのがこの門柱。立派な門扉があったのであろう。

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金岬砲台ではこの5連の掩蔽部が圧巻。

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この掩蔽部には、吉坂堡塁同様、貫通路がある。これも美しい。吉坂は、壁部がコンクリートであるが、ここでは壁部はれんが、しかも建具のヒンジ用に開口部に3個の石が入る。舞鶴でもっとも美しい貫通路であろう。

P1020328
おそらくトイレの遺構。右側が個室。個室ごとにれんがの基礎が見える。左側が男子小用部分。かまちは石。なんとも豪華なトイレである。

P1020333
東西砲座の間あたりにある、おそらく観測所と思われる遺構。

P1020348
西側砲座の西端にある遺構。指揮所か。れんがの色の濃淡による意匠が美しい。

P1020356
観測所下にある砲側庫。2連。上部に写っている遺構が観測所。

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西側砲座の一つ。

P1020347
指揮所近くで見つけた標石。「舞要」は舞鶴要塞の省略形か。

舞鶴要塞の中でも、金岬砲台はたいへんに魅惑に満ちた遺構である。それは、「完全なる放置」であるからだと私は思う。植物に飲み込まれようとしている遺構の美しさである。それなのに、5連掩蔽部の掃いたような清潔さは不思議でさえある。


大きな地図で見る
金岬砲台(B)

3 びん


金岬砲台といえば、瓶である(ほんまか)。今回もいろいろな瓶を見つけたが、おもしろそうな瓶を紹介したい。

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日本麦酒鉱泉の瓶。大日本麦酒の瓶はときおり見かけるがこいつは「NIPPON BEER KOSEN」というエンボスが入っている。日本麦酒鉱泉は、1921年から1933年にかけて存在した会社であるから、この瓶の製造もそのあたりのはずだ。

ビール瓶に関しては、ビール製造会社の変遷早見表を作ったので参考にしていただきたい。「日本におけるビール製造会社変遷早見表」

P1020326a
こちらは、カゴメのソース、ウスターソースかトマトソース(現在のトマトピューレ)の瓶。六芒星に"A"のマークだ。"A"は、当時のカゴメの社名、愛知トマトソース製造の頭文字である。社名変遷の経緯から考えて、やはりこれは大正から昭和の初めにかけて製造された瓶と考えられる。

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これはかなりの色物、「強力殺虫剤イチゲキ」という表示の入った瓶である。これは、関西ハイトリ紙製造という会社の製品。残念ながら、それ以上の例えば会社の変遷のようなことはわからない。

全体に瓶はよく見られ、ほかに茶碗もいくつか見たが、それ以外の食器類は認められなかった。吉坂堡塁でも瓶以外の食器類は見られず、このあたりも謎といえば謎である。

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