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坑道入り口は残っているが、立入禁止のため閉塞されている。ほぼ完全に密閉されているので、ほかに坑口がなければコウモリはダメだろう。付近をかなり広範囲に踏査したがほかの坑口は見つからず。
坑口の川の対岸に仕分け場がある。橋もなくなっており、沢渡り。
仕分け場の近くにあったコンクリート構造物。入り口等の穴は全くなく、単にコンクリート塊で、何かの土台と思われる。
碍子。マークは見たことあるようなないような、だが、現時点ではよくわからず。
びん。無銘。もっとも、近くにオロナミンCドリンクのびんもあったから、古いものではないのかも。
1月なのにコバノミツバツツジが咲いていた。ここだけではなく、この日、磯砂林道でも見た。どんなけ暖冬やねん。
沖浦鉱山跡で廃坑を探索したところアプローチの容易なところに坑口を見出した。中に入ってみたところ、コキクガシラコウモリ約300頭が冬眠していた。
沖浦の赤灯付近から、北方向に沖浦鉱山の遺構のようなものが海中に見える。ここへ寄ってみようと挑戦したが、最後の鼻が回り込めず断念。
沖浦港のドックの東端から近畿自然歩道が山に登っており、これを通ると柴山港灯台に達することができるようなので、とりあえずそちらに行ってみることにした。
最初のピークを過ぎると木製の階段で下るところがあるが、それをおりきったところに左側に崖がありチェーンで安全措置をしているところがある。崖からは穴が見えるが、これもアプローチはかなり危なそう。
ところが、この崖と道を挟んで反対側を少し入ると、実に入りやすい坑口がある。
坑道内部はいくつかに枝分かれしているが、総延長はたいしたことはない。ただし、立坑もあるので注意が必要。枝の1本にコキクガシラコウモリが約300冬眠していた(冒頭写真)。
坑口手前のピーク付近のお地蔵さんの周りに置いてあったれんがの刻印。大阪窯業の刻印。
コウモリの探索の下調べとして兵庫県美方郡香美町香住区沖浦の沖浦鉱山についてネット調べていると、香住区上計に防空監視哨跡があることがわかり[1]、こちらにも行ってみたくなった。
まずは花見峠を目指す。花見峠への峠道は幅員も広く軍道を思わせるほど立派な道だ。
峠には宝篋印塔がある。裏面には文政7年(1824年)建立とある。かなり、立派な宝篋印塔である。
遺構はあった。3間×2間ほどの木造建築物の基礎のみ。瓦の破片が見られることから瓦葺であったと見られる。骨材は砕石ではなく川石(玉石)であることから防空監視哨の遺構と見て間違いなかろう。遺留品としては無銘の緑ガラスの瓶があったが監視哨関係のものかどうかは不明。
頂上付近には素掘りの穴が2〜3個あるがこれは綾部の高射砲陣地にあるものに(ひと回り小さいが)似ている。高射砲があったとは言わないが、偽装砲(ま、ホウキの柄ww)くらいはあったのかも。
----2月9日附記------
この穴は炭焼き窯の可能性もある。今まで白炭窯しか意識していなかったが、黒炭ならこの形状でも焼けるのかなと。
遺構脇に三等三角点。これがなかなか見つからなかった。
テレビの共聴アンテナも「遺構」レベルの残骸が少なくとも3箇所で見られた。集落ごとに中継所があったのかも。 頂上付近、スカッとした眺望は木の枝に遮られる。峠道では碍子が散見される。峠道で見つけた碍子には数字が入っていた。数字の入った碍子は初見。
上の写真は登るときに見つけた碍子群。このTKマークは以前夜久野鉱山で見たことがあると思ったけれと、夜久野鉱山のはTの字の横棒が直線。
それはともかく、最初右上の碍子をみて、「1925 6」と5と6の間にスペースがあるように見えて、1925年6月かなと思ったのだが、左下のは「19256」とまったくスペースがない。これは製造年月ではないのかなと思った次第。
ところが下山中に別のを見つけた。若干判読がビミョーだけれど、「1920 8」とも読める。 .
3枚目も同じく下山途中。これは、日本碍子(現在の日本ガイシ)のマーク入りだが、1929。日本碍子のマーキングは美しい。
帰ってネットで調べてみると、碍子のマーク付近の数字は、
と、すべて1900代。となると、これはやはり製造年としか考えられない。
このようなことから、花見峠の峠道の碍子は1920年代製造と考えざるをえない。そうすると、テレビ中継所の電源供給用の碍子とは考えられない。峠道を通して電気を送っていたということになるのかな。
[1] 柴山ふるさと教育応援団編, 2012, 柴山ふるさとガイド, 香美町教育委員会
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