年表

BC320年ごろピュテアスがグリーンランド(アイスランド?)を探査TB320a
BC20年瓠公、新羅に漂着HB020a
157年迎烏、日本の小島に漂着H0157a
544年粛慎(みしはせ)の人、佐渡島に漂着H0544a
570年高麗の使人、越に漂着H0570a
573年高麗の使人B、越に漂着H0573a
588年隋の戦艦が耽羅に漂着H0588a
609年百済の僧ら、肥後葦北に漂着H0609a
620年屋久島の人、伊豆諸島に漂着H0620a
653年遣唐使02H0653a
654年トカラ船漂着H0654a
659-661年遣唐使4AH0659a
659-661年遣唐使4BH0659b
661年大伴部博麻ら百済救援の役で唐の捕虜となるR0661a
676年麻續王、因幡に流されるO0676a
676年筑紫太宰三位屋垣王、土佐に流されるO0676b
677年新羅人朴刺破ら五島列島に漂着H0677a
678年百済の使人遭難H0678a
685年新羅人金物需、漂着新羅人とともに帰国H0685a
686年防人の遭難H0686a
699年役小角、伊豆に流されるO0699a
703年漂着した新羅人を新羅使に付けて還すH0703a
724年流刑の制が定まるO0724a
727年渤海使01H0727a
733-739年遣唐使10H0733a
735年筑紫から新羅に漂流したものが帰国H0735a
739年渤海使02H0739a
739年石上乙麻呂、土佐へ流されるO0739a
743-753年鑑真H0743a
752-754年遣唐使12H0752a
756年大伴古慈悲、池田親王 、土佐に流されるO0756a
756年楊貴妃が山口県長門市に漂着(伝説)H0756a
759年中臣朝臣楫取、出羽国に配流O0759a
760年遣渤海使04+渤海使05、対馬に漂着H0760a
760年大伴上足、多褹島の掾に左遷O0760a
763年板振鎌束(遣渤海使07)の漂流H0763a
769年氷上志計志麻呂、土佐に流されるO0769a
772年遣渤海使08+渤海使07、能登に漂着H0772a
774年大宰府に命じて新羅の漂流民を帰還させるH0774a
775年紀伊国の漁師、大水で流されるH0775a
776年高麗の使者が越前に漂着H0776b
777年渤海使09H0776a
777-778年遣唐使16H0777a
777年遣渤海使08, 渤海使10H0777b
779年渤海人ら出羽国に漂着H0779a
783年呉原忌寸名妹丸、海部郡に漂着H0783a
792年安曇宿禰継成を佐渡国へ配流O0792a
793年四天王深草が隠岐国へ配流O0793a

2008/04/13

データの移動について

漂流リストアップブログは、2008年4月13日から、「漂流@wiki」に移動しました。このブログは、ミラーではなく残骸です。ブログ機能は当面継続しますが、データについては、順次削除していきますので、「漂流@wiki」をご利用ください。

新システムは、wikiシステムを使用していますので、ユーザー登録していただければ、加筆修正、新規データの書き込みなどに参加していただけます。また、サイト内検索も可能です。

今後とも、Ever Green Forest -漂流 をよろしくお願いします。

2008/03/09

小野篁って小野妹子の末裔ってか

佐伯有清著「最後の遣唐使」は、たいへん面白い著作であるが、なかでも、「へえええ」という感じだったのは、標題の小野篁(おののたかむら)が小野妹子の末裔であるということであった。

小野篁といえば百人一首の

わたの原やそしまかけてこぎいでぬと 人にはつげよ あまのつり舟

の作者として知られるが、遣唐使19の副使に任ぜられるも、病気を理由に辞退。その罪で隠岐へ配流された。で、この小野篁は遣隋使の小野妹子の末裔であると書かれている。

遣唐使16の帰路死亡した小野石根もそうらしい。小野家は、遣唐使に絡んだ仕事に就くという特殊な家系であったようだが、いままで気が付かなかったことを知らされると、大変に気になる。

2008/03/07

マイブームは末期遣唐使

いろいろな要素が絡み合って、最近、末期の遣唐使がマイブームだ。最初は「漂着船物語」で、遣唐使18の第4船は中国にたどり着いていたのではという大庭氏の仮説だ。遣唐使18では、第3船・第4船は行方不明になったというのがいままで当たり前の考え方であったが、「漂着船物語」では、この第3船と第4船について書かれている。ううむ、まだまだ遣唐使は熱い。

で、「最後の遣唐使」だ。こちらは、遣唐使19について。実はまだ精読していないが、円仁の「入唐求法巡礼行記」から遣唐使19を再検討ということのようだ。

で、いろいろと物色していると、なんと「日本後紀」が講談社学術文庫から現代語訳がでているではないか。「日本後紀」は、岩波の古典文学大系にもとりあげられておらず、いままで、手軽に手にとることのできる書籍がなかっただけに、たいへんにありがたい。

ということで、8世紀末から9世紀にかけてが、たいへんなマイブームとなっているところだ。

2007/01/24

島根県立大学の市民研究員で、共同研究三件

http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=335958006

浜田市の郷土史研究家森須和男さんと、同大学院の呉相美(オ・サンミ)さんが手がけるのは、「近世石見と慶尚道との漂流・漂着民についての研究」。

 石見を中心とした同県内の海岸には古来、嵐に遭うなどした朝鮮人が多く流れ着き、地元の手厚い庇護を受けた後、送り返されたことが知られている。一方、朝鮮半島へも日本人が漂着した。

 今回の研究は、森須さんが長年追究し続けてきたテーマに、呉さんが関心を抱き、実現。韓国の大学や図書館で関係資料を集め、韓国側の研究者とも意見を交わす。
(山陰中央日報)

2006/04/20

Ever Green Forest-漂流: 宝順丸の1/10レプリカを見た

以前に紹介した、宝順丸レプリカが、ワシントン州の博物館に贈呈するため、兵庫県庁において出航式が4月18日行われたようだ。約半年兵庫県庁に展示されていたが、もう見られなくなる。

リンク: Ever Green Forest-漂流: 宝順丸の1/10レプリカを見た.

2006/04/03

「小平次漂流記 異本とその考察」

20060403

志摩市立磯辺図書館・郷土資料館が発行した書籍。500円(定額小為替)+送料210円(切手)で送ってもらった。磯部古文書学習会が7冊の古文書を解読しその結果をまとめたと「上梓にあたって」という文章にあるが、どうしてなかなか、さまざまな資料から総合的に小平次の漂流を解析し、37ページという限られた紙面で非常に上手にまとめている。さらに「志州鳥羽流船次第書」全部の古文書の影印とその翻刻が示されているのがこの本の白眉か。

奥付を見ても志摩市立磯辺図書館・郷土資料館が発行したということしかわからず、磯部古文書学習会もはしがきに現れるだけで、おそらくその学習会には優れた指導者がいて、本書はその指導者の労作というのがその実態という感じがしないでもないが、そのあたりがまったくもって匿名とされているところが大変に奥ゆかしいといわざるを得ない。

奥付の上には、いままでにもこのような古文書関係の資料集をこの資料館が出してきたことと、これからも出すというようなことが書かれているが、ちいさな資料館のこの頑張りにはびっくりである。

2006/03/02

おろしや国酔夢譚 オリジナル・サウンド・トラック

20060302b

映画「おろしや国酔夢譚」のオリジナル・サウンド・トラックのCDをゲット。例によって、amazonのマーケットプレイスでの予約購入である。1991年にロシアで録音されたもの。

資料性としては光太夫と親しかったソフィアが作ったとされ、ロシア人に歌い継がれてきたといわれる「ソフィアの歌」が入っていることぐらいか。

バラライカと同族かと思われるドムラという楽器の演奏もある。これは、写真で見ると単弦3コースの楽器で、ほとんどバラライカと同じではないかと思うが、形はイタリアン・マンドリンのようなイチジク型。この楽器でマンドリン・オーケストラのような合奏をするので単弦とはいえ、ほとんどマンドリン・オーケストラのような音であった。

2005/11/17

宝順丸の1/10レプリカを見た

20051117

先日、中日新聞のサイトで知った宝順丸のレプリカですが、きょう兵庫県庁に行く用事があって見てきました。2号館の2階ロビーに飾ってあります。しかし、愛知県の漂流民が助けられてアメリカのワシントン州に連れて行かれたという漂流ですが、兵庫県は直接的には余り関係ありません。ワシントン州と兵庫県が姉妹提携にあるということで、ボーイスカウトの兵庫連盟が作ったらしいのですが、もひとつ納得行かないところもあります。

個人的には、兵庫県の漂流民といえば、ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)だと思うのですがいかがでしょうか。

レプリカは大変よくできていて、ワシントン州に寄贈するのがもったいない感じでした。

説明パネルの文章を紹介します。

宝順丸と三吉物語(日本ボーイスカウト兵庫連盟)

 1832年10月、14人の乗組員を乗せて愛知県美浜町小野浦の樋口重右衛門所有の千石船「宝順丸」は尾張藩の米や陶器を江戸へ運ぶため、鳥羽を出帆しました。

 しかし難所として恐れられていた遠州灘を一気に乗り切って江戸へ向う途中で嵐に遭い、舵が壊れ、船の転覆を避けるため帆柱を折りそのまま黒潮に流され14ヶ月の間太平洋を漂流し、乗組員は雨水で積荷の米で飢えをしのいでいましたが壊血病で次々と倒れていきました。

 故郷の人々は宝順丸の消息は絶えて、地元の人々は「きっと冬の荒波で難破してしまった」ものとして慈しみながらも、地元の良参寺に墓を建て、乗組員一同の霊を慰めようとしました。現在愛知県美浜町の小野浦に「岩吉・久吉・乙吉頌徳(しょうとく)記念碑」(いわゆる三吉記念碑)があります。

 そしてついに1834年1月、米国ワシントン州(兵庫県の姉妹州)沖に漂着した時には当時14歳の見習い船員であった音吉、久吉、そして28歳の岩吉の3人(三吉)の若者だけが生き残りました。

 奇しくも3人は北米大陸の土を踏んだ最初の日本人になりました。3人が漂着したのは現在、アメリカインディアンの保留地とされているフラッタリー岬付近(ワシントン州北端カナダ国境付近)であった。ここで3人は現地のマカ族に捉えられ船は壊され彼らは原住民の保護の下に生き延びました。そしてその後に彼らには数奇な運命が待ちうけていました。

 当時、この地域は下側の取引などをしていたイギリスのハドソン湾外車の支配下にありました。3人の船員が漂着したという情報は、音吉がスケッチした遭難時の絵や積荷の美しい陶器が現地部族の手を経てコロンビア州のフォートバンクーバーに居住していたハドソン湾現地責任者として著名なジョン・マクラフリンにも届きました。生き残ったのは音吉、久吉、岩吉の3人となる。そこで3人は、地元の学校に入学し、英語教育を受けることとなりました。

 ハドソン湾会社にとって鎖国している英国と日本との交易のために開国交渉に役立てるという目的のためもあり、3人は1835年6月、3人はイギリス船イーグル号でハワイを経由してロンドンに送られ、ロンドンで1日だけ上陸を許され、市内見物をしました。ロンドンの土を踏んだ初めての日本人となったのです。1837年(天保8)アメリカの商船モリソン号で浦賀に着くが当時の日本はまだ鎖国状態であり砲撃され上陸できす、失意のうちに再びマカオに帰りました。マカオはその当時中国では唯一の外国人の住む地域でした。3人の世話をしてくれたのは、ドイツ生まれの宣教師チャールズ・ギュツラフです。語学に自身のあるギュツラフは3人を助手にして聖書の翻訳に取りかかり、1年がかりで「ヨハネ伝福音書」「ヨハネの手紙」の日本語訳を完成したのです。その後音吉はイギリスに帰化し、イギリスの通訳として1854年(安政元)日英親和条約締結時に通訳として日本との交渉に活躍しました。また音吉はマレー人と結婚し、妻の故郷であるシンガポールへ移住、シンガポールではなんと日本が開国して以来最初のヨーロッパ派遣団の福沢諭吉にも会っています。

 1864年、音吉はジョン・マシュー・オットソンとして、日本人としては初めてイギリスに帰化。その3年後の1867年1月19日、49歳で波乱の一生を終えプキティマ地区のイギリス人墓地に埋葬されました。2004年6月には音吉の埋葬地を発見した新聞紹介記事があります。

 後年(1879、明治12年)長男ジョン・ウィリアム・オットソンが横浜にきて、父の遺言に従って横浜で帰化を申請するがその後の消息は不明である。神戸のいくつかの商会で勤務した形跡があるが、当時の日本にはまだ帰化にかんする法律が未完成であったので帰化が出来なかったものと思われます。

*三吉の物語は下記の小説やビデオ映画、愛知県美浜町のホームページでも紹介されています。

 「海嶺」(上中下) 著者 三浦綾子  「にっぽん音吉漂流記」 著者 春名 徹


 日本ボーイスカウト兵庫連盟は1989年に「兵庫県・ワシントン州姉妹提携25周年・ワシントン州建州100周年」に三吉ゆかりの地、フォートバンクーバー国立公園に日本人としてはじめてアメリカの土を踏んだ3人の漂着水夫、岩吉、久吉、音吉という当時15、16才の少年たちが14ヶ月の漂流に耐え抜いたことが人々に大きな感動と勇気を与えるものであり、この史実を後世に伝えると共に、ボーイスカウトアメリカ連盟シアトル第53隊との交流を記念し、50年後に開封するタイムカプセルとともに顕彰碑を寄贈建立されました。

 今回製作された「宝順丸」模型は三吉らの上陸地フラッタリー岬の近郊にあるマカル博物館(Makah Cultural & Research Center)へ贈られる予定。

2005/11/12

清水のりお 「大黒屋光太夫」

20051103b

音楽CDです。清水のりおって私もまったくどういう人か知りませんので。

で、「大黒屋光太夫」とC/Wが「悲しみのソフィア」というシングルCDです。1993年8月20日発売。amazonのマーケットプレイスで手に入れました。

「大黒屋光太夫」「悲しみのソフィア」とも、光太夫がエカテリーナ2世の避暑地であるツァルスコイ・セロに滞在中に出会った女性、ソフィアが題材です。この人が光太夫のことを歌にしたということで、その歌は、映画「大黒屋光太夫」では、たしか聞けたはず。ところで、いきなり大黒屋光太夫でもかなりしんどいのに、ソフィアがどういう人なのかってもっとしんどいですよね。普通の人にはわからないでしょうね。

「大黒屋光太夫」はばりばりの演歌、「悲しみのソフィア」は、大昔の歌謡曲、たとえば、布施明とかのちょっと勇ましい目の感じの歌謡曲でした。

大黒屋光太夫記念館あす(2005.11.13)開館

朝日新聞の記事。

江戸末期に帝政ロシアに漂流、奇跡の帰還を遂げた大黒屋光太夫の記念館が13日、出生地の鈴鹿市若松中1丁目(当時、南若松村)にオープンする。これまでは若松小学校の空き教室を借りた資料館で土、日、祝日の午後しか見学できず、全国の光太夫研究者やファンからは不満も出ていた。この日から開館記念展が始まり、講演会もある。

とのこと。

リンク:
大黒屋光太夫記念館HP
大黒屋光太夫記念館あす(2005.11.13)開館(朝日新聞記事).

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