760年 遣渤海使04+渤海使05、対馬に漂着(H0760a)

漂流そのものは、遣渤海使04+渤海使05の事故であるが、一連の航海となる遣渤海使03の出発まで遡る。

遣渤海使03の出発

天平宝宇2年2月10日(758/03/27)、渤海大使03・小野朝臣田守を餞する宴が開かれたということが万葉集に見えるので、758年春に出発したと考えられる。これまで2回の遣渤海使は渤海使の送使としての派遣であったが、遣渤海使03は日本から渤海への正式な使節としてはじめての例となる。[1]

遣渤海使03までの小野田守

天平勝宝5年2月9日(753/03/22)に「従五位下の小野朝臣田守を遣新羅大使に任じた」という記述が続日本紀に見られるが、この遣新羅使そのものに関する記述は見られない。

天平勝宝8年5月2日(756/06/08)、聖武上皇崩御に際には、5月3日(756/06/09)、山作司(造山司に同じ。御陵造り)に任じられた。[3]

遣渤海使03が渤海使04とともに帰国

天平宝宇2年9月18日(758/10/24)、小野朝臣田守(たもり)(遣渤海使03)らが渤海より帰った。渤海大使の輔国(ほこく)大将軍兼将軍行木底洲(ぎょうもくていしゅう)の刺史兼兵署少正(ひょうしょしょうしょう)・開国公の揚承慶(ようしょうけい)以下23人(渤海使04)が田守に随行して来朝した。そこで越前国に滞在させた。

天平宝宇2年10月28日(758/12/03)、帰国した遣渤海大使(遣渤海使03)・従5位下の小野朝臣田守に従5位上を、副使・正6位下の高橋朝臣老麻呂(おいまろ)に従5位下を授けた。その他の66人にも、功労に応じて位階を授けた。
なお、このことについては、「依遣高麗使廻来天平宝字2年10月28日進2階叙」との記述のある木簡が平城京址から出土している。

天平宝宇2年12月10日(759/01/13)、遣渤海使03の小野朝臣田守らが、唐国の情勢(政変)を奏上した。田守は唐王から渤海王に賜った勅書1巻を報告書に添えて進上した。

天平宝宇2年12月24日(759/01/27)、渤海使04の揚承慶らが入京した。
天平宝字3年1月1日(759/02/02)、天皇は大極殿(だいごくでん)に出御して朝賀を受けられた。文武の百官および高麗の蕃客ら(先に入京していた渤海使04のこと。当時渤海を蕃国視していた)は、規定の儀礼に従っておのおの拝賀を行った
天平宝字3年1月3日(759/02/04)、帝は宮殿の端近く出られ、高麗使(渤海使04)の揚承慶らは土地の産物を貢上し、国書を奏上した
天平宝字3年1月18日(759/02/19)、帝は宮殿の端近く出られ、高麗(渤海)(渤海使04)大使の揚承慶に正3位を、副使の揚泰師に従3位を、判官の馮方礼(ひょうほうらい)に従5位下を授けた。録事以下の19人にも、それぞれの地位に応じて位を授けた。国王および大使以下には地位に応じて禄を賜った。5位以上の官人と高麗の使人、ならびに主典(さかん)以上を朝堂で饗応し、舞台で女人による楽を演じさせ、庭では内教坊の女性が蹋歌を舞った。高麗の使人や主典以上の者もこれにつづいた。事が終わってのち、身分に応じてそれぞれに真綿を賜った。
天平宝字3年1月19日(759/02/24)、内射(ないしゃ、大射に同じ)を行った。渤海の客人を喚んでまた同じように射を行わせた。
天平宝字3年1月27日(759/02/28)、大保(たいほ)の藤原恵美(ふじわらえみ)朝臣押勝(おしかつ)が、高麗の使人(渤海使04)を田村第(たむらてい)(押勝の邸宅)に招き、宴会した。天皇は勅して、内裏の歌祇を遣わし、真綿1万屯を賜った。また、当代の文人たちが、詩を賦して使人に送り、副使の揚泰師も詩を作って唱和した。

遣唐使13が渤海使04とともに出発

天平宝字3年1月30日(759/03/03)、正6位上の高元度に外従5位下を授け、迎入唐大使使(天平勝宝4年度の大使藤原清河を迎える使い(遣唐使13))に任じた。

天平宝字3年2月1日(759/03/04)、天皇は高麗王(渤海王)に次のような書を賜った。 「貴国の国使(渤海使04)は、日本の国使につき従って来朝したので、乗って帰る船がない。よってそのための使者を任命し、本国に送り返す。わが使者はそのまま帰国から大唐に行き、前年入唐した大使の藤原朝臣清河を迎えようと思う。よく理解して助けられたい。」

天平宝字3年2月16日(759/03/19)、揚承慶ら(渤海使04)が国に帰った。高元度ら(遣唐使13)もまたそれに随って出発した[3]。この日、太宰帥(だざいのそち)藤原真楯(ふじわらのまたて)、渤海使送別の餞宴を開く[1]

この使節団は、高元度、内蔵宿禰全成(うちくらのすくねぜんせい)等、総勢99人。
第一の使命は、”船をもたない使節”揚承慶等(渤海使04)を本国へ送還するという送使としての使命
第二のは先に小野田守がもたらした情報により、遭難漂流から生還して、長安の都にいる先の遣唐大使(遣唐使12=H0752a)、藤原清河等を大乱中の唐から救出して帰国させるという、迎入唐大使使としての使命
第三には藤原仲麻呂が進めている新羅討伐のための、日渤間の協力を促進するための遣渤海使としての使命
第二の使命については、渤海側が多人数の入唐は危険であると忠告したので、大使高元度等11人だけで入唐することとなった。結果的に副使格の判官内蔵全成以下残りの者が、送あるいは遣渤海使ということになったのである。[1]

迎入唐大使高元度(こうげんど)は往路渤海から山東半島の登州を経由して長安に至る。藤原清河を迎えるのが目的であったが、安史の乱の最中で危険なため、唐朝は帰国を許さず、高元度だけが帰る。 羽栗吉麻呂の子翔同行。翔は唐にとどまったらしい。

遣唐使13判官、帰路渤海使05とともに対馬に漂着

天平宝字3年10月18日(759/11/12)、藤原河清(清河)を迎える使い(遣唐使13)の、判官内蔵忌寸全成(くらのいみきのまたなり)は渤海を廻って帰国する途中、海上で暴風にあって対馬に漂着した。渤海使の輔国大将軍兼将軍・玄菟(げんと)州刺史兼押衙官(おうがかん)・開国公の高南申が、ともに随って来朝した(渤海使05)。その中台(中書省)の牒(ちょう)(連絡文書)には次のように言っている。 藤原河清を迎える使いは、全部で99人であります。大唐の安禄山は、先に天子の命にそむき、史思明(ししめい)もその後に乱を起こして、内外は荒れて騒がしく、まだ平らげられていません。それで河清を迎える使いを送り出そうとしても、恐らく殺されるというような害を受けるでしょう。迎える使いを渤海が率いて帰らせようとしても、考えてみれば日本の意に反するでしょう。それで長官の高元度ら11人を出発させ、大唐に行って、河清を迎えさせ、同時にこちらの使者を任命して、高元度らと共に唐に出発させます。また判官の全成はいずれも帰国させます。またこちらの使いを任命し、全成らに随って日本に往かせ、詳しい事情を通報させます

天平宝字3年10月23日(759/11/17)、高麗(渤海)の使い(渤海使05)を大宰府に呼び寄せた。

天平宝字3年12月19日(760/01/11)、高麗(渤海)使(渤海使05)の高南申(こうなんしん)と、わが国の使(遣唐使13)の判官内蔵忌寸全成らが難波の江口に到着した

天平宝字3年12月24日(760/01/16)、高南申(渤海使05)が入京した

天平宝字4年1月1日(760/01/23)、天皇は大極殿に出御して、朝賀を受けた。文武百官および渤海の使節(渤海使05)らが、おのおのの儀礼にしたがって拝賀した。

天平宝字4年1月5日(760/01/27)、帝(淳仁)は宮殿の端近くに出御し、渤海国使(渤海使05)の高南申らが土地の産物を貢上した。そして次のように奏上した。 「国王の大欽茂(だいきんも)が申し上げます。日本の朝廷の遣唐大使で特進兼秘書監(唐の秘書省長官)の藤原朝臣河清が、本国に差し出した上表文と恒例の貢物を献上するために、輔国(ほこく)大将軍の高南申らを選んで、使いに任じて入朝させます」と。 これに対して天皇は次のように詔した。 「遣唐大使の藤原河清は久しく帰国しないので、心がふさぎ気がかりに思っていた。ところが高麗王(渤海王)が南申を遣わして河清の上表文を持って入朝させた。王の誠心は本当に嬉しく思う」と。

天平宝字4年1月7日(760/02/02)、高野天皇(孝謙天皇)および帝(淳仁天皇)が閤門(大極殿院の門)に出御した。五位以上と高麗(渤海)使が儀礼に従って参列した。天皇は詔して、高麗国大使の高南申に正三位を、副使の高興福に正四位下を、判官の李能本・解臂鷹(かいひよう)・案貴宝にそれぞれ従五位下を授け、録事以下にも地位に応じて位を授けた。国王に絁(あしぎぬ)30疋・美濃特産の絁を30疋・絹糸200絢(く)、調の真綿を300屯賜った。大使以下の使人にもそれぞれ地位に応じて物を賜った。五位以上と渤海の使節に宴を賜わり、それぞれ地位に応じて禄を賜った。[3]

天平宝字4年1月16日(760/02/11)、外従五位下の高元度を能登守に任じた。[3]

天平宝字4年1月17日(760/02/12)、内射(大射に同じ)を行った。そこで渤海の使節を召して大射の作法を見物させた。[3]

渤海使05+遣渤海使05の出発

天平宝字4年2月20日(760/03/11)、渤海使05の高南申らが帰国した

天平宝字4年2月20日(760/03/15)、渤海使05は天平宝字4年2月20日に平城京を離れて帰国の途についたが、彼らは前回と同様”船をもたない使節”であったから、その帰途は送使陽候史玲璆(やこのふひとれいきゅう)の指揮する船に送られての帰航であった。[1]

遣渤海使05の帰国

天平宝字4年11月11日(760/12/26)、陽候史玲璆(やこのふひとれいきゅう)(遣渤海使05)が帰国。

続日本紀(天平宝字4年11月11日)
高南申を送る使者で外従五位下の陽候史玲璆(やこのふひとれいきゅう)が、渤海から帰国した。その功により従五位下を授け、ほかの使人にも地位に応じて位階が与えられた。[3]

遣唐使13+唐使の帰国

天平宝字5年8月12日761/09/19、高元度ら(遣唐使13)帰国(南路:蘇州ー越州浦陽府ー大宰府)

続日本紀(天平宝字5年8月12日) 藤原河清を迎える使いの高元度ら(遣唐使13)が唐国から帰国した。はじめ元度が使命を奉じて出かけた時、渤海の道を通り、賀正使の揚方慶らに随って唐国に行った。使命を果たして帰国しようとした時、唐国は兵器の見本として甲冑1具・伐刀1口・槍1竿・矢2隻を元度に分け授けた。
また内使(皇帝からの直接の使)が、その勅を次のように述べた。
特進で秘書監の藤原河清はいま使い(高元度)の奏上によって、日本に帰国させようと思う。ただ、討ちもらした反乱軍がまだ平定されていないので、道路に困難が多いであろう。元度は南路をとって、先に帰国して復命せよ。
すぐさま中謁者(ちゅうえつしゃ、皇帝の側近)の謝時和に命じて、元度らを引きつれて蘇州に向わせ、刺史(州長官)の李岵(りこ)と相談して、長さ8丈の船1隻を造り、押水手官(おうすいしゅかん、水主を監督する官)として越州浦陽府の折衝で賞紫金魚袋(地位を示す装飾の朝服)の沈惟岳(しんいがく)ら9人の水手と越州浦陽府の別将で賜緑(しりょく 、地位を示す緑色の服)の陸張什(りくちょうじゅう)ら30人を指名して、元度らの帰朝を送らせた。 一行を太宰府に安置した。[3]

天平宝字5年10月10日(761/11/15)、東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海などの諸道に命じて、牛の角7800隻を貢上させた。さきに高元度が唐から帰国する日、皇帝が元度に対し「この頃安禄山によって、兵器を多く失った。今、弓を作ろうとして方々に牛の角を求めている。聴くところでは、故国では牛角が沢山あるという。卿が帰国したら、朕のために牛角を求めて、使者を派遣するついでに当方に贈れ」と語った。そのためこれの備蓄がなされた。

天平宝字5年11月3日(761/12/07)、外従五位下の高元度(遣唐使13)に従五位上を授けた。その録事の羽栗翔は、河清のところに留まって帰国しなかった。[3]

天平宝字6年1月6日(762/02/07)、参議・従四位上の藤原恵美朝臣真先を派遣して、前年(8月12日)に来航した唐人の沈維岳らを太宰府において饗応させた。大使(沈維岳)以下には地位に応じて禄を賜わった。

天平宝字6年5月19日(762/06/19)、大宰府が次のように言上した。
唐の賓客の副使である紀喬容以下38人が書状を提出し、次のように申しています。
「大使の沈惟岳は賄賂を取る不正がさきに発覚して、下の者を率いるのに不適格であります。副使の紀喬容・司兵の晏子欽は、統率の任に当るのにふさわしい人物であります。何れをとるべきか伏してご裁断をお示し下さい」と。そこで大宰府の役人が協議したところ、申していることは事実であります。
これに対して朝廷は次のように返答した。
大使と副使は何れも唐の皇帝の遣わした勅使であり、中謁者の謝時和と蘇州刺史とが相談してきめたものである。したがってこれを改変すべきではない。彼らが故郷に帰る際の禄も、以前からの慣例よって支給することにする。

天平宝字6年8月9日(762/09/05)、天皇は次のように勅した。
唐人の沈惟岳らは、大宰府が先例に従って安置し、気遣いなく留まらせる。必要なものを支給せよ。送使は渡海をやめ、海陸二路の都合のよい方を利用し、皆京へ入らせよ。
水手たちはそこから郷里へ自由に帰らせよ。

沈惟岳ら唐使に関する記述はこれで終了

参考文献

  1. 上田雄, 孫栄健, 1990. 日本渤海交渉史. 六興出版.
  2. 宇治谷孟,1992. 続日本紀(上)全現代語訳. 講談社.
  3. 宇治谷孟,1992. 続日本紀(中)全現代語訳. 講談社.
  4. 大林太良編, 1995. 日本の古代3 海をこえての交流. 中央公論社.
  5. 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)