板振鎌束(遣渤海使07)の漂流 763年(H0763a)

漂流は遣渤海使07の帰航時の出来事だが、遣渤海使06からが一連の航海となる。

遣渤海使06の出発

天平宝字5年10月22日(761/11/27)、武蔵介で従五位上の高麗朝臣大山を遣高麗(渤海)使に任じた。[3]

遣渤海使06の乗船として、能登国で新造された「能登」号が用意された。彼らが出発したのは、天平宝字6年春と推定される。[2]

遣渤海使06+渤海使06の帰国

天平宝字6年10月1日(762/10/26)、正六位上の伊吉連益麻呂(いきのむらじますまろ)(遣渤海使06)が、渤海より帰国した。その国の国使である紫綬大夫・行政堂左允・開国男(爵位の一)の王新福以下23人(渤海使06)が随行して来朝した。越前国加賀郡に安置し、必要なものを支給した。わが国の遣渤海大使である、従五位下の高麗朝臣大山は先ごろ船上において病に臥し、佐利翼(さりはね)の津に到って卒した。[3]

佐李翼はおそらく金沢市の外港である大野湊か宮腰港(現在の金石港)であろうと推定されるものの、残念ながら現在の地名にそのまま比定できるところがない。[2]

天平宝字6年12月11日(763/01/03)、遣高麗大使・従五位下の高麗朝臣大山(遣渤海使06、帰途に死亡)に、正五位下を贈り、副使正六位上の伊吉連益麻呂に外従五位下を授け、判官から水手に至るまで、地位に応じて位を進めた。[3]

天平宝字6年閏12月19日(763/02/10)、高麗(渤海)の使いの王新福らが平城京に入った。[3]

天平宝字7年1月1日(763/02/21)、天皇は大極殿に出御して朝賀を受けた。文武の百官および高麗(渤海)の蕃客(渤海を見下した言い方)はそれぞれ儀式に従い拝賀を行なった。[3]

天平宝字7年1月3日(763/02/23)、高麗の使の王新福が土地の産物を貢上した。[3]

天平宝字7年1月7日(763/02/27)、帝(淳仁)は閤門(大極殿の門)に出御して、高麗(渤海)大使の王新福に正三位を、副使の李能本に正四位上を、判官の楊懐珍に正五位上を、品官・着緋の達能信に従五位下を授け、それ以外の人々にも、それぞれ地位に応じて位を授けた。国王や使いの従者以上にも地位に応じて禄を賜った。五位以上の官人と渤海の客に饗宴を催し、庭において唐楽を演奏させた。客側も主人側も、五位以上の人々に、それぞれ地位に応じて物を賜わった。[3]

天平宝字7年1月17日(763/03/09)、帝(淳仁)は、閤門に出御して、五位以上の官人と渤海の蕃客、および文武百官の主典以上を朝堂において饗応した。唐・吐羅(耽羅即ち済州島か)・林邑(南部ベトナム)・東国・隼人などの楽を演じ、内教坊(朝廷で女楽や踏歌(あられ走りといわれる踊り)を奏させ、官人と客人の主典以上の物が、これについで踊った。踏歌に供奉した百官と渤海の客人に、地位に応じて真綿を賜わった。[3]

天平宝字7年1月21日(763/03/14)、内射(大射)を行なった。渤海の客で射に堪能な者は、その列に加わらせた。[3]

天平宝字7年2月4日(763/03/26)、大師の藤原朝臣恵美押勝が、渤海の客のため饗宴を催した。天皇は詔して使いを遣わして、いろいろの色の袷衣三十櫃を賜わった。[3]

遣渤海使07+渤海使06の出発

天平宝字6年11月1日(762/11/24)、正六位上・借緋(しゃくひ)の多治比真人小耳を、高麗(渤海)人を送る使に任じた。[3]

多治比真人小耳はその後の記録に一切出てこないので、何らかの事情で辞退したか、更迭されたかしたものであろう。[2]

天平宝字7年2月20日(763/04/11)、渤海の王新福らが帰国した。

渤海使07の漂流

天平宝字7年8月12日(763/09/27)、最初、高麗(渤海)に遣わす船を名づけて能登といった。帰国の日に風波が荒れ狂い、船は海中を漂いさまよった。船中の人々は神に祈って「幸い船の霊力によって、無事に国に帰りついたなら、必す朝廷にお願いして、錦の冠をいただき船に酬いたいと思う」といった。無事に帰国ののち、この日になって、かねての祈祷の約束に従い、船に従五位下の位を授けて頂いた。その冠のつくりは表は錦、裏は絁でこしらえ、紫の組みひもを冠の纓(あこの下で結ふひも)としたものであった。[3]

天平宝字7年10月6日(763/11/19)、左兵衛で正七位下の板振鎌束は、渤海から帰国するとき、人を海中に投げこんだ。これによって取り調べをうけ、獄に下された。八年の乱(恵美押勝の乱)で獄囚が充満したため、獄から近江に移して居住させた。
最初、渤海使の王新福が本国に帰るとき、その船が腐って脆くなっていて、送使の判官・平群虫麻呂らは、その船がこわれてしまうのを心配して、官に申し出て国に留まることを求めた。そこで史生以上はみな渡船を停止し、船の修理をした上で鎌束をそのまま船師(船頭)に任じ、新福らを送って出発させた。任務を果して渤海から帰るとき、わが国の留学生の高内弓とその妻の高氏および男広成・緑児一人・乳母一人、さらに入唐学問僧の戒融と優婆塞一人がそれぞれ渤海を経由して、鎌束らに随行して帰国しようとしていた。海中で暴風にあって方向を失い、舵取と水手も波にさらわれて沈んでしまった。このとき鎌束は「異国の女性が今この船に乗っている。またこの優婆塞は、常人と異なり、一食に米を数粒しか食べないのに、何日たっても飢えることがない。風に漂流するこの災難は、きっとこれらの異人が原因であるに違いない」と主張し、水手に命じて内弓の妻と緑児・乳母・優婆塞の四人を捕らえてさし上げ、海中に投げこませた。その後も風の勢いはなお猛烈で漂流すること十余日の後、隠岐島に着いた。[3]

参考文献

  1. 荒川秀俊, 1995. 異国漂流物語. 社会思想社.
  2. 上田雄, 孫栄健, 1990. 日本渤海交渉史. 六興出版.
  3. 宇治谷孟,1992. 続日本紀(中)全現代語訳. 講談社.

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