772年 遣渤海使08+渤海使07、能登に漂着(H772a)

渤海使07の来着

宝亀2年6月27日(771/08/12)、渤海使07、壱万福(いちまんふく)を大使とする325人の渤海使が出羽国野代に来着。常陸国に安置

渤海国の使節で青綬大夫(渤海の官位。唐の文散官該当)の壱万福ら三百二十五人が船十七隻に乗って、出羽国の賊地(蝦夷の地)の野代湊(現能代市付近)に着いた。常陸国に安全に住まわせ食料などを供給した。[2]

漂着ともされる。[1]

宝亀2年10月14日(771/11/28)、渤海国使節・青綬大夫(せいじゅだいぶ)の壱万福以下40人を常陸国から召して、正月の賀正の義に出席させることをきめた。[2]

宝亀2年12月21日(772/01/30)、渤海使07、入京

宝亀3年1月1日(772/02/12)、天皇は大極殿に出御して、朝賀を受けた。文武の百官、渤海国の蕃客、陸奥、出羽国の蝦夷は、それぞれ儀礼に従って拝賀した。また次侍従(侍従の仕事を補佐する令外の官)以上の宮人と内裏で宴会を行い、地位に応じて物を賜わった。[2]

宝亀3年1月3日(772/02/14)、天皇は宮殿の端近くに出御し、渤海国の使節、青綬大夫(渤海の官位。唐の文散官に相当)の壱万福らが土地の産物を献上した。[2]

宝亀3年1月16日(772/02/27)、渤海王の上表文の受け取りを拒否する。

これより以前、渤海王の上表文が無礼であると、使節の壱万福をとがめていたが、この日、壱万福らに告げて次のように言った。
「万福らが、実際に渤海王の使者であるならばどうして奉った上表が、先例に異なって無礼なのか。従って、その上表文は受け取れない」と。
これに対し、万福らは次のように言上した。
「いったい臣下たる者のつとめは、君主の命に違わないことです。それで、上表文を入れ密封した函を誤ることなくそのままに進上いたしました。ところが今、先例と違うとして返却されました。万福らは実に深くこのことを憂慮いたします。よって、拝礼を重ね、地に伏して号泣し、更に申し上げます。臣らにとって、主君は、この国のお方も本国の主君も同一であります。臣らは国に帰ったならば、まさに必ず罪せられるでありましょう。今はすでに使者として渡来し聖朝の国(日本)におります。その罪の軽重は、あえて避けることはございません」と。[2]

宝亀3年2月2日(772/03/14)、渤海使を饗応し、階位を授ける。

この日、五位以上の宮人と渤海の客人を朝堂院で饗応し、三種の楽(唐・東国・隼人などの楽)でもてなした。
万福らは朝堂院に入って座に就こうとする時、次のように申し上げた。
「先に奉りました上表文が常例に背いていたために、上衣文と函・贈物は返却されてしまいました。ところが、聖朝は厚い憐れみの恩恵を垂れ、万福らを外国使節の扱いとし、位階と俸禄を加え賜わりました。慶びに雀躍を耐えることができません。謹んで営庭を拝礼いたします」と。
渤海国大使の壱万福に従三位を、副使に正四位下を、大判官に正五位上を、少判官に正五位下を、録事と訳語にそれぞれ従五位下を授けた。緑色の衣を着る(六位は深緑、七位は浅緑)有位者以下にはそれぞれ地位に応じて官位を授けた。さらに渤海国王に美濃特産の絁三十疋・絹三十疋・糸二百絢・調の綿三百屯を賜わった。大使の壱万福以下にもそれぞれ地位に応じて物を賜わった。[2]

宝亀3年1月19日(772/03/01)、渤海国からの進物を壱万福に返却した。[2]

宝亀3年1月25日(772/03/07)、渤海国使の壱万福らが上表文を修正し、渤海王に代わって謝罪を申しのべた。[2]

宝亀3年2月28日(772/04/09)、渤海王に書状を与えて次のようにのべた。

天皇は敬んで高麗国王(渤海国は高句麗を継承しているとされていた)に尋ねる。朕は国体を引き継ぎ、天下に支配者として臨み、徳化の恵みを広く及ぼして、人民を安んじ救うことを期している。それ故に、領土の果てまで政治の教化は軌を一にして、全天の下、恵みは隣国と相隔てることがない。昔、高麗が全盛であった時、その王の高武は、始祖より歴代、大海の彼方に居りながら、わが国と親しいことは兄弟のようであり、義は君臣のようであった。海には帆をかけ渡し、山には梯を架けるように障害を越えて朝貢することが相続いてきたが、末年に及んで、唐・新羅の侵略をうけ、高氏は滅亡した。それ以来、音信は絶えてしまった。神亀四年に至って、王(文王、大欽茂)の亡父である左金吾衛(さきんごえ)大将軍・渤海郡王(武王、大武芸)が使者を遣わして来朝させ、初めて朝貢を修復した。先の朝廷(聖武帝)はその真心をよしとして厚遇優待された。王(大欽茂)は、先王の遺風をうけついで、前代の業を修め整えて、誠をもって仕え、王家の評判を落とさなかった。
ところが今、もたらされた信書を見ると、にわかに父王の方針を改め、日付の下に王の官位・姓名を記さず、信書の末尾には、そらぞらしく「天孫」という借越な称号をつらねている。はるかに王の意を推し量ると、このようなことがなされるはずはない。また近頃の事情を考えても、恐らく何かの錯誤であろう。そこで担当の宮司に命じて、使節に対する賓客としての礼遇を停止した。しかし、使人の壱万福らは深く先の過誤を悔い、王に代わって謝罪しているので、遠来の使者であることを憐れみ、その悔悟を聞き入れよう。王は朕の意図をよく理解し、永く良い図(はかりごと)をたてるように。また、高氏の時代には、世は兵乱が止まることなく、わが朝の威光をかりるために、貴国は両国を兄弟の国と称していた。ところが今、大氏の世になって国内は安泰で、両国の関係をみだりに舅甥(おじおい)と称するごときは礼を失するものである。今後の使節においては二度とこのようなことがないようにせよ。もし、確かに過去を改めて自ら新たにするならば、朕は隣交の好を永久に継続したいと思う。
春の景色はようやく和やかになってきた。想うに王の気色も住いことであろう。今、帰国する使者に託して、この思いを述べ、あわせて別に進物を贈ることにする。[2]

遣渤海使08+渤海使07(帰路)

宝亀3年2月29日(772/04/10)、渤海使07、帰国(出京)[2]

宝亀3年9月21日(772/10/25)、渤海国の客を送る使いの武生(たけふ)連鳥守ら(遣渤海使08)が纜(ともづな)を解いて海洋に出たところ、にわかに暴風に遭い、能登国に漂着してしまった。客主は辛うじて死を免れることができた。そこで福良津(羽咋郡)に収容した。[2] 宝亀4年2月20日(773/03/21)、渤海国副使・正四位下の慕昌禄(渤海使07)が卒した。使者を遣わして弔慰を表し従三位を贈位した。物を喪葬令の規定のとおりに賜わった。[2]

宝亀4春?、遣渤海使08+渤海使07、出国[3] 宝亀4年10月13日(773/11/06)、渤海国使壱万福の送使であった正6位上の武生連鳥守(たけふのむらじとりもり)(遣渤海使08)が、高麗(渤海)より帰国した。[2]

大林, 1995[3]によると8月。

参考文献

  1. 上田雄, 孫栄健, 1990. 日本渤海交渉史. 六興出版.
  2. 宇治谷孟,1995. 続日本紀(下)全現代語訳. 講談社.
  3. 大林太良編, 1995. 日本の古代3 海をこえての交流. 中央公論社.
  4. 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.

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